横濱ジャズプロムナード2010




横濱 JAZZ PROMENADE 2007 | スペシャル対談

jazzpro2007

・実施概要
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・街角ライブ
・ジャズクラブ
・コンペティション&イベント
・スペシャル対談
・参加者の声



「ハマ・ジャズ今昔」  バーリット・セービン×柴田 浩一

撮影:森 日出夫
協力:Five Stars Records

Burritt Sabin(バーリット・セービン)
1953年ニューヨーク市生まれ。米国海軍兵士として70年代の横浜新山下基地に住む。結婚後、海軍を辞し雑誌編集者として東京に移住。しかし、横浜への思い去りがたく85年に戻る。
朝日新聞に「かながわ見聞録」を執筆。
「イースト」の元編集者。ジャーナリスト、翻訳者。
著書「ヨコハマ歴史ガイド 二度不死鳥のように蘇った町」(英文版)有隣堂刊


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柴田浩一
横濱 JAZZ PROMENADE アーティスティック・ディレクター


■場の雰囲気は生き残る

柴田:横浜とジャズは皆さん合うって言うじゃないですか。それが本当なのかなって考えたときに、昭和の30年代(1950年代中ごろから後半)のころに、芸能人たちが夜、車で来てナイトクラブで遊んでいたという、これが僕は、今の時代だったらだめなんじゃないかなって。それは何かというと、大きな建物がなくて、それでちょっと高いところに上がれば、例えばクリフサイドのあたりに行けば海は見られる、それから建物の間から海が見える、それで周りが暗くてポツンポツンとナイトクラブが華やかな明かりをつけている。それで中に入ればジャズをやっている。そういうイメージが根づいちゃったんじゃないかなと思うんですよ。ビルがたくさん林立しているような町だったら、そうはならなかったのかなと、そんな気がするんですよね。
セービン:そうですね。まあ、確かに50年代後半で、クリフサイドとブルースカイ、ナイトアンドデイですね。それが多分、東京で割と店が早仕舞いするからなんです。クリフサイドなどは、一晩中とまではいえないかもしれませんが、随分遅くまでやってたんですね、だから車で来ればまだ間に合うんです。車も少ない。そういう人たちはもちろん格式のある方々ですね。慎太郎とか、裕次郎とか、三島由紀夫とか、そういう方々が東京から。湘南からも集まったんでしょう。クリフサイドは雰囲気があるということも当然あるでしょうね。もっとさかのぼれば、なぜこういう店があるかというと、港ですからまず船です。よくある話では東洋汽船のバンドマンがジャズを港町に持ち込んだんですね。横浜だけじゃなくて、神戸もそうですね。シアトルやサンフランシスコから楽譜を買って、楽器も買ってホテルで演奏する。当時もいろいろ水際にホテルがあったでしょう。昔の話では今のホテル・ニューグランドの隣にあたる所にグランドホテルがあって。
柴田:ちょうど堀川沿いですよね。
セービン:そうそう。今、人形の家があるところですね。古い外国の見聞録を見ると、グランドホテルでヨーロッパ人のバンドが元軍楽隊長の指揮下にジャズを演奏したそうです。それでジャズと言っても、どのような音楽なのかわからない。
柴田:それはジャズ風なんでしょ?
セービン:ジャズか、ジャズじゃないかというのも難しいことで、こんな話があります。64年のポルノ裁判なんですが、いけない出版の定義がしづらいんだけど、ポーター・スチュアートという判事が私はポルノは見ればわかるという定義をしたんですね。ジャズもそうです。聴けばわかる。だけどなかなか定義しづらいものですね。当時、ジャズといっても録音もないですしね。でもこの人はジャズと言ったんですよ。フィリピン人もアメリカ人も演奏したらしいのですが、見聞録の著者は余り上手じゃないという表現でしたね。そのグランドホテルの震災前の話です。横浜の港といってもその伝統がいろいろなことで中断されるんですね。震災とか、戦争とか。でも場の雰囲気というのは変わらないですね。場の雰囲気は神様みたいに生き残るんです。クリフサイドの経営者は、戦後のナイトクラブが日本人立入禁止で、ならば私が日本人のための店をつくるって、それでクリフサイドをつくっちゃった。それで外国人は立入禁止。
柴田:それは、あくまでも進駐軍が日本人オフリミットのクラブをたくさんつくったので、そこには入れないからということですか。 
セービン:そうそう。はずみでね。ザマミロ(笑)。それで、後に外国人も入ることができたんですけど、最初は日本人のための店だったんですね。
柴田:うーん、僕はこうだと思うんですけど、幸か不幸か戦争に負けて、進駐軍が来て、そしてダンスホールあるいはジャズを演奏する場ができた。そこでアメリカの人たちが、ジャズ好きだったということが、日本人のミュージシャンにとってはおおいに勉強の場になったんだと思います。
セービン:そうそう、もちろん。もちろんそうなんですよ。違う面では、当時はレコードが高いし手に入らなくて「ちぐさ」の吉田衛さんが輸入して、それを聴いて若いミュージシャンたちが勉強できたんです。
柴田:実はここは「ちぐさ」ゆかりの店です。ほら、みてください。テーブルとか椅子、「ちぐさ」のものです。
セービン:やっ、本当だ。ああ、わかります。僕もいきましたから。これは僕の意見ですが、当時の海軍より陸軍のほうが動かないだけ、周りの雰囲気が感じられるんですね。だから横浜の場合、第八陸軍が駐在して2年ぐらいすると地元のミュージシャンと友人になっているんです。だけど海軍の場合は船で出たり入ったりして、そういうつながりが薄いと思うんですね。だから横須賀より横浜のほうが、ジャズが育ちやすかったと思う。
柴田:東京は?なんか横浜はいつも東京圏のひとつだから。
セービン:横浜は東京じゃないから。東京じゃないというのは、日本政府はどうしても第八軍を東京に行かせない、進駐させないように米政府といろいろ調整して、横浜にとどまるようにした。こさせればいろいろと問題があるから。つまり横浜の歴史はいつも東京にやられる、何でも東京優先なので進駐軍を横浜に置くという考え方でしたけど、文化的にみれば本当に横浜でよかったですね。
柴田:それはあれですかね。同じ港町でも神戸が違うのは、東京の隣じゃなかったから?
セービン:そうです。東京は首都でしょ。天皇陛下もいるし日本政府もあるし、その玄関先が横浜。神戸、大阪は米軍も行ったけどさほど重要じゃない。
柴田:東京との空気の違いというのは?
セービン:東京は大き過ぎるんですね。それで東京と言っても、結局、レンガみたいなものですね。レンガのように区がつながっているんです。そう考えてみると、浅草と自由が丘の共通点は都内ということだけですね。横浜は東京と横須賀の中間ですね。横須賀のような地方都市ではないし、東京みたいに大きすぎない。
柴田:レンガというのは画一でないものが集まってると。
セービン:東京がレンガだという理由は、東京にはいろいろあるという意味ですね。多分、横浜と比べる場所がないんじゃないかなと思いますね。新宿ほどパワフルじゃないですね。渋谷ほど若者の町じゃないでしょ。六本木とも違う。そういう意味でね、横浜はユニークですね。
柴田:セービンさんが、横浜に住もうと思った一番の魅力は何ですか?
セービン:やっぱり海があるからですね。もっとも、自分は船乗りですから。海…船が好き。横浜の雰囲気も好きだし、懐かしくなったんです。

■兵隊ミュージシャンとの交流

柴田:アメリカ人が日本に軍隊で来ていてデビューしたという話はあるんですよ。結構、いろんな人が来ていたんじゃないかという気がしますよね。
セービン:そうですね。大体、軍の場合、例えばミュージシャンでうまければ、銃を持たせるよりも、ヴァイオリンを弾かせるでしょ。ちゃんとできるから。ピアノのハンプトン・ホースもそうだったかな?彼もいろいろと問題があってですね。
柴田:ありましたね。
セービン:残念なことなんですけど。彼は随分この界隈でいろいろとあったんですね。
柴田:この界隈?そうなんですか?
セービン:それでおもしろい話だけど、彼が夜の伊勢佐木町の界隈に出て、ある女性、多分パンパンガールと会った。それで彼女が「何やっているの?」「おれはミュージシャンだ」「ミュージシャンなら何をやるの?」「ジャズをやるよ」「じゃあ、ジャズのイカス店に連れていってよ」「ああ、いいぜ」と一緒に、多分ハーレムクラブへ行った。
柴田:ハーレム?ハーレムクラブ? そんなのがあったんですか。
セービン:あったんですよ、関内に。行ったら着物着ている女性がピアノを弾いている。ハンプトン・ホースはものすごくびっくりした。「この人はうまい、ジャズが出来る。全然知らなかった」後に秋吉敏子とわかるのですが。その店で一緒にプレーしたりして、そういう出会いがあったんです。薬を探しに行ってミュージシャンを見つけるという話ね。これはご本人がいうんですが、自分のあっせんでアメリカに渡って、ボストンの名門バークレー音楽学校へ入った。別の説はオスカー・ピーターソンがJATPで来日のときという…。
柴田:それが一般的ですよね。
セービン:それは彼女もいってることだから、ハンプトン・ホースの記憶違いか、または勘違いというか。思い過ごしというか。
柴田:あれですかね、ウマさん(ホースのあだ名)は音を聴いた時、バド・パウエルがいるって思ったでしょうね。
セービン:そうでしょうね。本当に彼がびっくりしているのは「この田んぼの上にジャズが波のように寄せている」というような表現を使いました。
柴田:田んぼの上?
セービン:田んぼの上。つまり、オーバー・ザ・ライスパディ。まあ、比喩です。田んぼの上、ジャズが寄せているという表現は、彼の文章もジャズみたいにすごくうまいんです。

■進取じゃなくて受身

柴田:横浜で、ダンスホールやジャズにかかわるお店を経営している人とか、そういう人はいいですけれども、一般の市民にどうしてジャズが浸透したかですよね。
セービン:一般の人に浸透したかどうかはわかりませんが、今でもジャズは少数の人が好む音楽じゃないでしょうか。
柴田:僕が小学生のときには、ジャズというとほとんど洋楽がすべてジャズでしたね。クラシックとジャズ。ジャズの中にはラテンも、ハワイアンも、シャンソンもすべてがジャズというくくりの中でしたから。そしてうるさいと、ジャズ。静かなのはジャズじゃない。
セービン:それはおもしろいですね。ジャズは定義しづらい(笑)。そういう意味では浸透していないんじゃないでしょうか。普通の人は聞かないですね。大体がポップスですね。シャンソン、演歌ね。裕次郎とかそういう…。
柴田:違う言葉でいうと、横浜市民は港町の人間で進取の精神がある。何でも受け入れる度量がある、心が広いんだというんですけど、そうじゃないんじゃないかな。影響されやすい、好奇心が旺盛であるってことはわかるんですが、受け身なんじゃないかっていう気がするんですけどね。
セービン:そうですね。自分の経験で言うと、私も、とある港町に3年半?4年ぐらいいたんですが、外国に対する偏見を持っていたと思うんですよね。おかしな話だけどね、これは昔、夏でしたが私が甚平を着て、おしゃれな喫茶店に入りました。そうすると女性の経営者に呼ばれて何か耳打ちされたウエイトレスさんが、僕のところに来まして、「ジャパニーズ、オンリー」。とにかくびっくりした。
柴田:もしかしたらセービンさん、あれじゃないですか、甚平着て靴履いていたんじゃないですか?(笑)
セービン:いや、靴じゃなかった。多分サンダルだったと思う。それで私も金を使いたくないという気持ちになった。
柴田:あるんですか。そういうのが。それはひどい話だ。逆にいうと、親しみを持ってそういうのを着てくれたわけだから、歓迎しなきゃいけないんですよ。
セービン:そうそう。「甚平がよく似合う」と言ってくれればいいのにね。特に腹が立ったのが、経営者が自分で私にいわなかったんです。そのウエイトレスに言わせた。そう、何て言うか卑怯。17?8歳の女の子のウエイトレスに嫌なことをやらせた。経営者に人間の心がないんですよね。偏見を持っているし最低の人間ですね。だけどそれは、いろいろ事件があるから外国人に対する偏見があると思うんです。あの港町は、随分米軍に助けてもらっていますね。昔ですが米兵は、市の年間の予算以上の大金を酒に使ってしまったんですね。それに基地ではたくさん日本人が働いていますね。船の修理とか、店もいろいろとあるんです。ただ壁があるんですね。外国人と日本人の間にはね。

■憧れアメリカ

柴田:小さい頃、すぐこの先に橋があるんですが、都橋という。そのたもとの中華そば屋さんに入った。1950年代の初めごろだと思うんですが、野毛山動物園に両親に連れて行ってもらった帰りでした。そこにアメリカの兵隊さんが3人いて、1人がクルミを手の中でガリ、ガリ、ガリッてやってたんですよ。それを見て興味を引かれたんですよね。それがとっても欲しくて、親に「あれが欲しい」と言ったんじゃないのかな。そしたらその兵隊さんが、それに気づいてくれたんです。何かすごい宝物のように思ったんですよ。それまでは、アメリカの兵隊さんは怖いというイメージがあったんです。クルミをもらっただけで、「ああ、やさしいんだな」と思いました。
セービン:あー、そうですね。
柴田:ジャズを好きになったときにまず黒人が好きになった。だから、黒人イコールアメリカ人だという形で差別という気持ちは全然なかった。同じように僕らがそうだから、僕らの前は逆に言うと、敗戦国ということで進駐軍に上陸されてしまったというので怖がっていたんじゃないかという。僕のおばあちゃんが?山手の向こう側に母方の実家があったんですけど?「アメリカさん」と言っていたんですよ。最初のころ。アメリカさんと言ってたのが、60年代半ばぐらいになると、今度は「アメちゃん」に変わるということで、その言葉の変わり方がすごく象徴的だなと感じましたね。
セービン:どこの町ですか。ああ、千代崎町。
柴田:小学生のころ夏休みになると、そこに行って近所の友達とよく三溪園とか間門とかに遊びに行っていたんですよ。海へね。そのときに、小港のキャンプの前を通るわけですよ。そうするとあそこにいる子供たちが、チェックのシャツを着てジーンズをはいて、すごいおしゃれなんです。そういうのに自然とあこがれる。「ああ、いいなあ。ああいう洋服着たいなあ」みたいな。だから僕らの小さいころは、アメリカ・イコール文化でしたね。僕らがいいたいのは、僕らの年代というのは、僕らの気持ちの中で、アメリカに対するあこがれがあるから、受け入れようとする気が多かったんじゃないかなという。
セービン:子供の視点から見てると、そうでしょうね。
柴田:だから終戦直後生まれが団塊の世代と言われている。ウワァーとたくさん多い人たちですから、みんながそういう気持ちで横浜は、温かいかいんじゃないですか。だからジャズが好きな人間がたくさんいるのかなと、そんな気もするんですけどね。あと服装なんですよ。アート・ブレイキーのジャズメッセンジャーズが1961年に初めて来日した。あのすごい連中ですけれども、三つボタンのトラディショナルのスーツですよ。それをピシッと着て、かっこいい。石津謙介という人がアメリカの物まねスタイルで、ヴァン・ジャケットという会社をつくって、時を同じくして成功するんです。だから僕は日本のジャズが発展する過程の中で、ヴァン・ジャケットとアメリカの服装というのは、すごく密接なかかわり合いがあると思っているんです。

■昔の本牧、昼と夜

柴田:小港にいくとバタ臭さと同時に芝生が広がっててフェンスの向こうは良かった。
セービン:そうですね。本牧のほうは違っていましたね。住宅街であり、ほとんど子供がいるんですね。家族がいる普通の生活しているんですね。それでも特に60年代には白人、黒人の問題もあってね。本牧通りのVFWとか、イタリアンガーデンとか、そこでもいろいろ喧嘩もありましたね。
柴田:VFWって何なんですか?
セービン:イタリアンガーデンとかのすぐ隣で、戦争を経験した米兵が入会できる、そういうクラブがあったんですね。世界中にありますよ。大体年配で保守的ですよ。それもなくなって多分、15年くらいたちますか。だけどその本牧に東京の連中がたくさんやってくる。そういう連中を本牧族って呼んだんですよ。本牧人に対して。その時代、ゴールデンカップスとかグループサウンズの時代ですね。本牧族でも基地の人じゃなくて問題はね、ベトナムから休暇で1週間ぐらい来た連中です。前線から立川へ降りてバスで山下公園。自分のタクシーで本牧へ。そういう連中だから気が立っている。
柴田:それはちょっと考えられないですね。だって戦争の世界と全然違うでしょう。それって理解できない。
セービン:理解できないですね。1週間ぐらい日本に行って女性と遊んで、酒飲んで戻ってください。それを22歳くらいの人間に与えるわけです。自分の仲間が殺されて、ジャングルに何週間もいて、日本に来ると問題は起こり得るでしょ、耐えるに耐えられないんですよ。
柴田:なるほど。帰らない人もいるんじゃないですか。
セービン:それで逃げて行った人もいるんですね。戻ると生きていられないかもしれないから。

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■ヨコハマの文化

柴田:僕はセービンさんが横浜市に提言したという話。横浜の文化ということで考えれば、ジャズと大道芸じゃないかというのはすごくうれしい話なんです。特に僕は、ジャズを小学校の音楽の時間の必須科目にしようといってるんです。要するにジャズ人間を育てなくてはいけないと思っているんです。それは全国一律に金太郎あめみたいに、どの小学生も同じ考えというのは大体異常ですよ。横浜は横浜らしい小学生が育たなくてはいけない。それでその後にジャズをやれといっているわけじゃないんです。横浜人の教養として。
セービン:これがですね(資料をとりだす)ニューヨーク市のリンカーンセンターでやっていることですが、多分、2?3年ぐらい前にジャズ専門の図書館と、ローズホールというジャズを演奏する場所をつくったんです。それでこういうのをやったの。ヤング・ピープル・コンサート。子供を呼んで、カウンセリングをしていろいろ説明してくれる。学校に出張するのがジャズスクール。学校に行って演奏するんです。学校側がお金を払う6万円くらいですね。中学生向けのミドルスクール・ジャズアカデミーは奨学金とかあるんですよ。それで学費なしで、1日に何時間も集中講義があるんです。
柴田:すごいですね。
セービン:この教育プログラムは、ジャズのどうのこうのと説明をする。説明を入れて、演奏するんです。ずっと説明だと子供がわけわからないでしょ。演奏すればわかりやすい。音楽学校でもジュリアードはまた別。ジャズだけじゃなくて、クラシックも。ジュリアードは狭い門。
柴田:ところが今は、日本人はジュリアードじゃなくて、どこでしたっけ? みんな行くのは? あっ、バークレー。
セービン:バークレーね、はい。1割ぐらい日本人らしい。
柴田:何でバークレーなの?って。ジュリアードに行けばいいのにって思ったことありますけど、猫もしゃくしもバークレーになっちゃうんですよね。
セービン:マイルス・デヴィスがジュリアードだったと思うんですけどね。音楽教育についていえば文科省、これから科学とか、数学を増やすつもりでしょ。どこか削らないとだめ。だから今、学校によってはこれを特別に月に1回ぐらいとか、少し予算があればジャズの教育者を呼んで説明をしてもらう。ジャズを教える枠というよりも、まず関心を持たせることですね。
柴田:普通に過ごしていると、小学生にとってジャズを聞く機会はほとんどないと思うんです。テレビで流れない。ラジオは聞かない。だから、僕らはまず、チャンスをつくってあげたい。興味を持ってもらいたい。
セービン:いい例が僕の息子ですよ。ピアノをやっています。けど、バッハとか、ブラームスとかそればっかり。でも、ジャズに触れれば興味がわくと思うんですね。ピアノは強制されないとやらないんですよ。10歳ですからね。もう4年ぐらいやってますよ。楽譜があれば読めるけど、ジャズは全然知らない。もうちょっと大きくなれば、ジャズのカウンセリングに連れていこうと思うんですよ。いい音楽家が日本にはたくさんいますから。

■今、ジャズって

セービン:以前に新宿の「ピット・イン」ですばらしい演奏があったんですよ。名前は忘れたけどすばらしかった。それで不思議なことには店はガラガラだったんです。採算が合わないと思ってね。
柴田:それが現実かもしれません。新宿は一時期、ジャズが隆盛をきわめた時代、60年代の中頃ぐらいだったと思いますが、歴史的にはそこで終わっているんですよ、それで他所へ散らばっているんですよね。そこへいくと横浜は、逆に今増えているんです。それが不思議で、これはちょっと手前味噌になりますけど、ジャズプロムナードという起爆剤があったからじゃないかなという、そういう気はするんですよ。
セービン:私もそう思っているんですよ。
柴田:それでね、じゃあ、どうかというと、ここもそうですけども、ジャズの店は余り人が入らない。どうやって食べているのかなと思うんですけど、でも何とかやっている。それはお客さんが入っているからやっているんじゃなくて、オーナーの情熱でやっている。それがすごく強い。
セービン:でしょ。
柴田:特に僕は横浜が強いんじゃないかと、東京とかはそうじゃない気がする。やっぱり営業という気がする。横浜はそうじゃなくて、もうけなくてもいい。好きな音楽に浸っていればいいという。
セービン:でも、やっぱりそれがもうけにつながれば、なおいいのでしょうね。

■ブルースの町

セービン:この横浜をジャズの町っていうのにね。形が欲しいですね。
柴田:僕ら小学校のときに、何かあるというときには必ず横浜市歌、横浜市の歌をみんなで歌ったんですよ。だから、今の40歳ぐらい以上の人はソラで歌えると思うんです。でも、ある時期にやめてしまった。だからうちの子供たちは歌えない。これは大きな間違いであって、そういういいことは続ける。横浜市の歌を歌えるということは、それは郷土愛につながるんです。それがわかっていない。ともかく僕は、よその土地とは違う人たちが横浜市民として育って欲しい。
セービン:そうですね。これは一種のふるさとづくりでしょ。随分と歴史が古いですよ、ジャズと横浜はね。
柴田:はい。そうです。
セービン:横浜市の文化行政も、何かもう一つという感じがしますね。もう少しですね。横須賀にはジャズゆかりの銅像が3つもあるんですよ。そう、横浜にはないね。僕が知っている限りで。あれはいい銅像ですよ。
柴田:あれね。最初見たとき、びっくりしましたよ。座っているから。何げなくという感じで。
セービン:全部座っているかな。いいですよ。横浜にはジャズ関連の記念碑は何もないでしょ。
柴田:何にもないです。
セービン:あの、伊勢佐木町の「モカンボ」があったところとか。
柴田:ないですね。何かつくりたいですよね。
セービン:でしょ。床屋のざん切りとか。歯医者さんの記念碑もあるんですよ。中華街に。ところがジャズにはないですね。
柴田:横浜の事始めとなるとたくさんありそうですね。まあ、横浜はブルースの町ですから、「伊勢佐木町ブルース」とか(笑)。
セービン:それは本当のブルースじゃないよね。あれは青江美奈でしたか。
柴田:もちろん、にせブルースですけど。それも多分、ブルースという言葉が横浜と合うと思ったんですよね。だから、さっきから言っている横浜とジャズという雰囲気が合うからなんでしょう。
セービン:あれよりも「別れのブルース」あるでしょ。
柴田:「別れのブルース」、はい。窓をあければ?港が見える。
セービン:そうそう。あれの題名は、「本牧ブルース」だったんですよ。
柴田:ああ、そうですね。でも、あれはホテル・ニューグランドという説と、それから例の十二天の辺りという話がありますけれども、あれはどっちでしたっけ?
セービン:服部良一ですね。あれはキヨホテルだった。
柴田:じゃあ、ニューグランドじゃない。遊びに行ったんじゃないですか。
セービン:もちろん。キャバレーがあったしね。それで、窓をあければ港が…横浜が見える、当時は大桟橋から、十二天が見えるんですよ。写真も見たことあります。だから逆に十二天から、大桟橋、ミナト横浜が見える。

■形に残れば

柴田:銅像をつくろう。
セービン:銅像も一つあればいいんじゃないかな。ニューオリンズにもセントルイスにもジャズの博物館があるんですね。
柴田:僕は横浜にジャズの博物館をと言っているんですが、なかなか場所がなくて苦戦しています。でね、なぜそう言うかというと、僕もたくさんコレクションを持っているわけですよ。それで、僕が死んだらこのコレクションはどこに行くのかって。どこか受け皿があったほうがいい。それが博物館構想です。本当は歴史的建造物がいいのですが…。
セービン:歴史的建造物はかえって使うほうがいいんです。外観などをなるべくそのままにして使えばいい。使わないとどんどん傷みます。使うほうが維持できると思う。柴田さんのコレクション、ほかの人もコレクションを持っている人はいっぱいいると思う。そういう人たちが寄贈する場所ができれば、どんどん発展しますよ。出来たらいいですね。

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