山上英男
列車が通過するたびに
ぼくは南に行きたくなる・・・
ホームシックのブルースだ
誰かぼくに教えてくれ
自由列車のことを・・・
(ラングストン・ヒューズの詩句断片)
先日、家内と一緒に横浜のジャズ・シーンをしのぶツアーに参加した。
20人が2組に分かれて、桜木町から野毛、日ノ出町、長者町、伊勢佐木町、関内へと歩き、最後に赤レンガ倉庫でディナーという行程だった。
ディナーの席では、横浜JAZZ協会・柴田浩一さんの講演があった。
それから40年余りの時が過ぎ、ある日、新聞で<ちぐさ>の閉店を知った。
ジャズならどこへでも聴きに行くというほどには熱心でなかった上に、暮らしの中でいつの間にか疎遠になっていたので、その記事を見るまでは<ちぐさ>という店のこと、ただの一度も思い出すことはなかった。
それなのに、この記事を見た瞬間、なぜか「しまった!」と思ったのだ。
新聞には「ジャズ界を支えた73年」とあった。
歴史の現場が失われてから、その貴重さを知る「後の祭り」の無念さなのか、行きそびれたままにした悔いなのか、名状しがたい感情が去来した。
<ちぐさ>跡をたずねると、そこはマンションになっていた。
「当時の面影、偲びようもありませんが、ほらここに、ビルの好意でメモリアル・プレートが残されたんです」とボランティアガイドの女性が言った。
指さされた足元を見れば、この場所に1933年、店を開いた吉田衛(まもる)さんという人の中折れ帽をかぶった横顔のスケッチと、ラッパの看板がめだつファサード全景が、それぞれタイルに写されて嵌めこまれてあった。
「戦時中、ジャズは<敵性音楽>だというのでレコードを国に没収されるんですが、3分の2はうまく隠し通して貴重な盤をまもったそうですよ。それもしかし、1945年5月の横浜大空襲で全焼してしまったそうです」という説明を聞きながら、この間観たばかりの井上ひさしの芝居『きらめく星座』の舞台を思い出していた。
この芝居の人物も、<敵性音楽>が大好きというレコード店主なのだ。この店主一家とそこに間借りする人たちの暮らしが、戦時体制への抵抗として、笑いの中に描き出されていたからである。
そしてまた、1941年12月7日(太平洋戦争開戦前日)で幕を閉じたこの芝居に、<ちぐさ>全焼の姿がつながって見えてきたのだった。
戦後、米兵向けのディスクを集めて<ちぐさ>は再開した。当時、吉田衛さんを知る人は「ジャズの頑固親父」と言ったそうだ。
2007年1月、時代の波か、この店も幕を閉じた。
伊勢佐木町の、何の変哲もない雑居ビルの入口で1952(昭和27)年頃の写真を見せてもらいながら説明をうけた。占領下の伊勢佐木町風景だ。
当時米軍に接収されてクラブになっていた不二家ビルの前に、ネクタイを締めたスーツ姿の黒人が立っていて、その脇にモンペ姿であねさんかぶりのおばあちゃんが二人、笑顔でたたずんでいるスナップ写真は、特に印象に残った。
「あら、私の生まれた頃だわ」と言った人がいた。
「そうか・・・私は中3だったな」と思った。ヘルシンキ・オリンピックやメーデー事件で記憶されている年だ・・・あの頃がちょっとよみがえる。
「ここが有名な<モカンボ>があった所です」と言い、「ここで天才ジャズピアニスト守安(もりやす)祥太郎が演奏して、渡辺貞夫や穐吉(あきよし)敏子など、その後の日本のプレーヤーに多大な影響を与えたのです」とガイドさんは説明に熱を入れた。
<モカンボ>も<守安>も初めて聞く名前だった。
有名といわれながら、一般にあまり知られていないのは、こちらがジャズ界の歴史に詳しくないということもあるのだろうが、この頃のジャズが、占領下の特殊な条件のもとに置かれていたからではないかと思った。
戦後、日本のミュージシャンたちが仕事を求めて、治外法権的な進駐軍のクラブで演奏していたという環境の中にジャズは閉じられ、演奏家仲間では有名なことも、外には出てこなかったからではないかと考えてみた。
そしてまた、1950年代の半ばに大学生活を送った世代には、基地と結びついたジャズへの屈折した感情があった。とりわけ56年10月、小雨降る砂川でクラスメイトと基地拡張反対のスクラムを組んだ私にとって、ジャズはコカコーラとともに、わが五感と衝突した。
そうした心情に覆われていたその頃の私には、後に日本ジャズ史で特筆されるようなシーンや話題も、だから、きっと素直には届かなかったのだろう。
それが1960年、日本の針路をめぐって街頭に出る中で、私は詩を書く友人から黒人文学を教えられ、それを媒介に、開放思想の表現としてのジャズを知った。そして、ジャズには、哀しく憂鬱なメロディーでさえ、人をそのまま暗く沈みこませない命のリズムがあるのも知ったのだった。
即興のユーモアが人と人とのつながりや自由への意志をひきだすのも感じた。
目を開かれ、共感した。
ジャズに心を開いた時、ヨーロッパからもジャズと映画の「新しい波」が上陸して来た。時代はモダンジャズ(ビーバップ)を求めていた。
そのビーバップを、すでに守安は54年の時点で演奏していたのだ。
柴田浩一さんの話は、音でつづりながらの横浜ジャズ史であった。
その中には、戦前(1925年)に、伊勢佐木町の<喜楽座>という芝居小屋で演奏されたという、アメリカから招いた7人編成のジャズバンドの音を復元して聴かせるという、珍しい試みもあった。
他にも魅力のある録音を聴かせてもらったが、話をしぼる。
圧巻は、今回のツアーで知った守安祥太郎というピアニストの唯一残された<モカンボ>での録音を聴かせてもらったことだった。
文句なく凄いと思った。
その音は、流星が空気の層に突入してくるときのように激しく燃えていた。
それでいて精緻なジャズなのだ。私は緊張し、気合が入った。
アメリカでさえまだビーバップが充分に耕されていない時期に、こんなにも複雑なコード進行や和音を、このスピードで演奏できたことは驚きだった。
同時に、こんな天才がわずか33歳の若さで亡くなってしまったこと、実に残念なことだと、しみじみ思った。
テーブル席がたまたま柴田さんの隣だったので、ちょっとした事をたずねたり、感想を言ったりすることができた。
「この時、守安はいくつだったんですか?」「30歳です」
「このテナーは誰ですか?」「宮沢昭です」
「いいですね」「守安が徹底的に鍛えたようですよ」
そんな会話もした。
いい一日だった。
食事にも満足して、赤レンガ倉庫を出ながら「秋にはまた<横濱JAZZプロムナード>に来ようよ」と妻に言った。