横濱ジャズプロムナード2010




横濱 JAZZ PROMENADE 2008 | スペシャル対談

jazzpro2006

・実施概要
・会場風景
・スペシャル対談
・参加者の声



平岡正明(評論家)


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柴田浩一(横濱 JAZZ PROMENADE アーティスティック・ディレクター)


■潮のにおいが変える

平岡:ちょっと昔の自分の話をするけど、柴田さんに感謝をしているのは、俺のジャズの聞きかたが変わったこと。昔あった、あなたの店(横濱繪看鈑)で聴いたレッド・ガーランドだった。「ストーミィー・ウェザー」と、それからもう1つ「ウイロー・ウイープ・フォー・ミー」か。その流れの中で「横浜時代」っていう俺のジャズの聴き方ができたんだ。それ何かっていうと、後ろ向きに行くってことだったんだよ。「ジャズ宣言」見ても、「ジャズよりほかに神はなし」を見ても、俺の論の中心って前衛ジャズ、フリージャズが多い。
柴田:うん。
平岡:ところがレッド・ガーランドをあなたにかけてもらって、俺驚いた。そのとき自分で言ったこと覚えている?その和音を聴いて。
柴田:うーん、細かいことは覚えてない。
平岡:レッド・ガーランドの和音って一種独特じゃない。彼がボクサー上がりだって知っていたから「こいつ、気絶しながら闘ったことあるな」ってわかった。それが本質なんだよ俺に言わせると。ハスキーな和音なんだよ。ハスキーな和音っていうのも変だけど。それを聴いているうちにさ、とんでもなく深いよと。あなたは、レッド・ガーランドが好きならって「ストーミィー・ウェザー」かけてくれたの。俺にはもう耳タコだった。サッチモもあるしな。ところがレッド・ガーランドの「ストーミィー・ウェザー」は何か違う。あ、これは台風の目の中に入った、げんなり来る低気圧だなって。
柴田:ああ、それは確かにそう言われると、そういうふうに感じるなあ。
平岡:でしょう?
柴田:ポール・チェンバース、アート・テイラーのジャリゾリってやつ?
平岡:うん。銀紙ヒリヒリと破るような音だよな。普通「ストーミィー・ウェザー」は、みんな嵐を吹いちゃうんだけど、台風の目ぇ吹きやがった。55年くらいの演奏だと思ったんだけど、いまから30年前(当時)にアメリカの黒人でここまで来てたっていうの、俺ちょっと寒気がしたんだよ。というのは、あの時代セシル・ テーラー、山下洋輔だとか板橋文夫なんかの時代だな、ピアノは。レッド・ガーランドっていう名手は「いた」って過去になっているじゃない。マイルスのところにいたころだって、レッドっていうやつは安定はしていたんだけど、なんていうか人を驚かすような演奏なんか全然ない人だったろ。その後はアート・テイラーとポール・チェンバースとトリオでスタンダードをずっとやっててな。そういう男が、嵐の中を行くってのはこうだなと。これは人種暴動かなんかで白人に襲われたら、抵抗したりするとめんどうくさいから、俺殺されてやろうと。俺が死体になってそこらへんに転がってたら、自分の仲間も怒るだろうと…くらいのニヒリズムみたいなものに達してたんだってことがわかって、それから俺、レッド・ガーランドずっと聴いたよ…。
柴田:そう。頭たたかれ過ぎたかもしれないな、6回戦ボーイで(笑)。
平岡:軍隊でシュガー・レイ・ロビンソンかなんかとエキシビジョンやったってんだぞ。
柴田:あ、ほんとに?
平岡:だからボクサーとしても一級品なんだよ。
柴田:いやでもね、考えられないよね。だってピアニストだったらさ、指が命じゃん。ポクシングやって指太くなっちゃってさ、細かい指遣いできないよね普通は(笑)。板橋みたいにゲンコツで弾きゃいいけどさぁ、そういうわけにいかないんだから(笑)。
平岡:いかないかな(笑)。しかし、あいつは闘い過ぎてパンチ・ドランカーになってたのかな。
柴田:どうなのかなあ。不思議だよね。
平岡:それで俺がぶつかったのが『あのころ空は灰色だった』(When There are Sky was Grey)、あの中の「セント・ジェームス病院」。いろんなセント・ジェームス聴いた中でレッド・ガーランドのがいまだに一番なんだ。セント・ジェームス・インファーマリーだから、診療所だよね。セント・ジェームスがつくから、たぶん教会に付属の救急病院みたいなものなんだと思う。そこで自分の女が行き倒れたんだろうな。それを検死に行ったわけでしょ。少なくとも白い布の上に寝かされてペショッとなってる女ってのは自分じゃないよね。レッド・ガーランドは死んだのは自分だって境地で弾いてるように俺には思える。
柴田:なるほどね。
平岡:うん。で俺がいくつか話をつくった。自分は特別な英雄じゃなかったけど、朝鮮戦争でもちゃんと闘ったと。田舎でおっかさんを死ぬまでは面倒を見たと。腕はまあまあの職人であると。ずいぶん白人に嫌な目にもあったんだけど、このまま自分が我慢していれば世の中はよくなるだろうと信じて自己主張はしないで来た。体がだるくなった。変だなと思ったけど、金もないし、保険も切れてたんでほっといたけど、どうもおかしいってんでセント・ジェームスへ行ってみたら「おまえ肺病だぞ、助からないぞ」って言われたと。その気持ちでどうも弾いてるって言ったら、あなたがな「これ聴け」って言って、「ブラッド・カウント」を俺に貸したんだよ。
柴田:(笑)覚えてないな。
平岡:そうなんだ。だけど教えてもらった俺のほうは、こうやってちゃんと覚えてんだよ。で、「ブラッド・カウント」ってわかるかって聞くけど、わかんなかった。そこで、これは血球数測定というふうに理解すりゃいいんだと。
柴田:ガンだけどね。
平岡:食道ガンだよな。すごく死を客観的に数値で見てる。で、「俺は死ぬんだな」ってふうに思いながら、自分の気持ちを親友のホッジスに託して。あの曲やっぱり「ストレーホーン死んだな」ってふうに、俺聞こえるわ。あの世から吹いてるように感じる。それを教えてくれたのはあなたなんだ。
柴田:あれも、67年のヨーロッパの楽旅中、ミラノでのリハーサル中だったらしいからね。それをストレーホーンは知ってて、それに間に合わせたっていう話がある。だからみんながスタジオにいるところに届けられたっていう。でき上がったばっかりの譜面が。
平岡:楽譜が。ああそう、それでエリントン自身がいった言葉の「彼の母堂は彼をビルと呼んだ」ってアルバムができるんだ。
柴田:そうそう、ストレーホーンの追悼盤ね。
平岡:いちばん最後にエリントンのソロじゃない。あのソロ・ピアノがいいね。
柴田:「ロータス・ブロッサム」ね。
平岡:な。キース・ジャレットのソロ・ピアノって「なによ」って言いたくなるようだよな。で、エリントンが、みんなが退いたあとピアノに座ってたからテープ回してて。そしたらやっぱり弾きだしたっていう。
柴田:あれね、「じゃあこれで今日の録音終わりね」ってことで、みんなが引き上げていくところで、エリントンがまだピアノに向かってたんで、そのままテープを回し続けたら弾きだしたっていう。あのすぐ2日後に「ロータス・ブロッサム」を、ハリー・カーネーをフュ?チャーして録音し直してるんですよ。
平岡:ハリー・カーネーの、それ残ってるの?
柴田:残ってる。持ってますけど、そのハリー・カーネーの演奏も。
平岡:今度聴かせて。
柴田:うん。だけども、ビクターはそれはレコードにしないで、エリントンのそのざわざわって声が入ってるやつを取り上げちゃったんです。
平岡:まあ、正解だと思うけど。
柴田:正解だったと思う。
平岡:うんうん。ぜひそのハリー・カーネーを聴かせてくれ。いいだろうねぇ。
柴田:うん、それもいいですよ。ほんとに。
平岡:もう1つそれで俺が発見したんだけど、もうCD時代になっちゃうとその真似はできないけど、たしか「ブラッド・カウント」はA面の3曲目だと思うんだ。B面の3曲目が「デイ・ドリーム」なんだ。俺、コード進行同じように聴こえるんだ、「デイ・ドリーム」と「ブラッド・カウント」は。だから、聴きようによっては同じ曲に聴こえるはずなんだけど、まるで違うわけ、雰囲気が。「デイ・ドリーム」は、ほんと夢を見てるみたいな。で片方のやつは死の世界で、A面とB面を聴き比べると世界観が変わっちゃうっていうのは、これはまあエリントンがやったっていうより偶然なんだろうけどね。レコード会社がしたんだろうけど。俺、「デイ・ドリーム」聴く人はね、必ず「ブラッド・カウント」聴け。「ブラッド・カウント」聴いた人には、そのままひっくり返して聴け。そうなると、天国と地獄を同時に演奏するつもりはなかったと思うんだけど、演奏してるエリントンの幅がわかるってのを、俺、実際何回かDJでかけたりもしたんだ。そういうジャズの聴き方みたいやつは、横浜ってより俺、柴田浩一個人から教わってるんだよ。
柴田:そうかなあ。
平岡:うん。だって現にレッド・ガーランドの「ストーミィー・ウェザー」聴いたら、「ブラッド・カウント」も聴いたほうがいいよ」って言ってくれたのあんただもん。だからエリントンに関しては再発見、それからレッド・ガーランドに関しては発見だね。それまで「マイルスのところにいる安定した音締めのいいピアニスト」ぐらいにしか知らなかったもん。
柴田:そうかあ。
平岡:うん。で、マイルスのところは、歴代錚々たるもんでしょ。ウイントン・ケリーだとか、ビル・エヴァンスだとか。でも俺はあれ以来「マイルスのところにいたピアニスト・ナンバーワン」はっていうと、「レッド・ガーランド」って言うようになった。これは東京時代にない感覚だったな。
柴田:さっきの「ブラッド・カウント」だけど、ホッジスに当て書きしたわけ。ストレーホーンがさ。
平岡:2人はほんとに親友だったの。
柴田:もちろん。だって、たとえば「デイ・ドリーム」もそうだしさ、全部あれ当て書きですよ。ホッジスに吹いてもらうために書いたんだから、「ブラッド・カウント」もそう。だから当然、演奏はすばらしいに決まってるの。ホッジスの持ち味を存分に活かすために書いてるわけだから。
平岡:じゃ、頭の中で鳴ってるわけだな、ストレーホーンには。
柴田:そうそうそう。だからあれはホッジスじゃなきゃ吹けない。あのコントロールのしかた、ラ・ラーラララーってさ、なかなか…。あれってベン・ウエブスター、無理だと思うよ(笑)。
平岡:(笑)
柴田:いや、吹けるだろうけど、違うんだなウエブスターだと。
平岡:もっとスケベになっちゃうの。
柴田:ああ、そうかもしれない。
平岡:ラ・ラーラララー、パッパッパッパ、ファ・ラーラララー、ファッファッファッファ(笑)。
柴田:(笑)そうかもしれない。

■ヨコハマのジャズは横向き

柴田:平岡さんがよく言う、横浜のジャズは後ろ向きだってやつね、そのへんの話を聞かせて。
平岡:何でもあるということが1つ。複線である。それはスイング・スタイルもあるし、前衛もあるし、ラップもあるし。スパッと横浜っていうパイプを切ると、パイプの中にさらに小さいいろんな線が入ってるじゃない。その1本引っ張ってくると、ああ、緑色の線はスィングだなとか、そういうやつがはっきりとあって、変に妥協しようとしない。いちばん新しいジャズがジャズだっていう無理をしない、横浜は。無理をするどころか、「エリントンみなやってるよ」っていう、テーマ出すんだもん。これ後ろ向きと言えば後ろ向きだろ。でもエリントンっていうのは、ニューオーリンズ・ジャズから前衛ジャズまでぜんぶ入ってるんだよね。ジャズのエッセンスみたいなもんで、だから背骨なんだけど。いま「エリントンやっとけよ」とか、1920年代の「サッチモやっとけよ」っていったら、「オッ、それはいいこと言った」っていうふうに応じてくれるのは横浜以外にあるだろうか。
柴田:そうね。たとえば某放送局が力入れてる東京ジャズなんかさ、いまだにハンク・ジョーンズとかね、彼には恨みはないけどもうやめなよって。相当高いお金払ってると思うんです。俺なんかね、外国人が来たいっていっても、「飛行機代出さないよ。でも、2泊分のホテルは出すけどギャランティも日本人と同じですよと。日本人だって出れない人たくさんいるんだから」って、正しいと思わない?
平岡:うん、まったく正しいね。
柴田:もうさあ、外国人でなきゃいけないなんてさ。とくにアメリカ人がジャズやんないとジャズ・フェスティバルにならないなんていう時代はとっくに終わってるよね。ところが、いまだに日本全国それやってるよ。
平岡:ハービー・ハンコックだとか、マッコイ・タイナーだとか。要するに「20世紀のビッグ・ネーム」だよな。それを出しとくと安全だという。考え方によっては、それ失礼だよね。「あなたは老人でしょう」って言われてるようなもんでしょう(笑)。
柴田:そういうのはテレビで見ればいいじゃん。
平岡:いや、そういうことだ。つまり横浜は大道芸もジャズ・フェスティバルも、市民と、もう1つ自慢できるのは、これは後ろ向きというより前向きなんだけど、最高のボランティアをつくり上げたよね。すごいね。
柴田:うん。でもこれ、つくり上げたというよりも皆さん自主的に動いてくれてるから。それが横浜のパワーかもしれない。
平岡:「つくり上げた」という言い方は悪かったけど、俺は82年の「本牧ジャズ祭」からやってるわけだよ。大道芸がそうだろ、大道芝居がそうでしょ。これみんな自主的にやってる。こういうこと言ってるんだよ。「俺たち、会社でこれだけ仕事やってれば出世してる」って(笑)。
柴田:(笑)みんなそうかもしれない。
平岡:(笑)俺知ってるもん。損得を超えているというより「こいつ、クレイジーだな」ってくらい活動するヤツいるじゃない。これ宝だよね。横浜は祭りの歳時記がある。いちばん最初、1月1日の0時に港がボーッっていうでしょ。あれいいね。俺は20年間あれ聞きに行ったりする。次に野毛大道芸がある。4月段階だね。野毛大道芸が終わったあと、みなと祭りがある。それで夏になると花火があって、各地のジャズ祭があるんだ。秋になると芸術の秋っだって、あっちこっちで展覧会、絵画展、演劇祭があって、ドカーンとJAZZプロムナードってかっこうになる。と、ひょっと見るとさ、ボランティア活動家がけっこう共通してるんだよね。

■港町同志

平岡:日本文化の中に「欧米」だけじゃなくて「中」という第3の軸があったということは、この街をすごく懐深くしてるように俺は感じる。文化的に言うとね、日欧の「欧」の中には「米」もあるし「蘭」も「仏」もあるとは言っても、やっぱり「日欧」だけでは俺は浅いように思う。「中」ってやつが加わって3極になったときに、相当な幅が出てきたってふうに思ってる。それはジャズの場合何かっていうと、最近の俺のテーマ「ニューオリンズ、上海、横浜」3軸なんだ。中国ってのはジャズにとっては具体的にだれが演奏したっていうよりも、上海幻想が横浜ではっきりある。対岸にある上海のフランス租界に関するイメージがものすごくあったんだなということが、俺はわかってたんだよ。ガーデン・ブリッジの赤い月といっただけでフランス植民地のイメージがある。横浜にはジェラール瓦だとかあるでしょう。
柴田:そうだ、パンとか石鹸もフランス人だ。
平岡:そう、幕臣の優秀な連中ってのは横浜に来てるんだ。成島柳北、福地源一郎、栗本鋤雲の三人を明治最初のジャーナリストというんだが、三人とも幕臣でザンギリ頭のなかにフランス寄りの知識を持ってる人たちなのね。フランス人の目から見ると、遊廓の港崎(みよざき)遊廓があるってことはかなりニューオーリンズ的なんだ。アングロサクソンてのは遊廓は、公娼制度は禁じるって建前でしょう。あの商売がない民族ってないのにさ(笑)。南北戦争の時代の港崎遊廓と、ニューオーリンズのストリーヴィル、じつに似た現象がある。“岩亀楼”対“マホガニー・ホール”。
柴田:そうすると、ジャズが生まれるにはフランスの影響がなかったら生まれなかったと。
平岡:うん、生まれなかった。
柴田:いや、そうかもしれないね、確かにね。
平岡:アングロサクソンだと差別だけだもん。そのクレオールっていう混血な、黒人と西洋人の、これは両方から受け入れられ、かつ両方からバカにされてた。その一種のアンビバレントな感じと西洋楽器をうまく弾いた。客間にはピアノがあったわけでしょ。それから葬式に行く曲「ユー・ラスカル・ユー」っての、おめえが死ねば、俺ぁうれしいぜってやつ。あれショパンの葬送曲。
柴田:そうそう、エリントンの「ブラック・アンド・タン・ファンタジー」の最後に使ってるやつね。
平岡:ショパンで野辺送りして、帰りがオー・ウェン・ザ・セイントで「聖者の行進」でどんちゃん騒ぎする。それがあったのはフランス的というか、フランス植民地だからなんだ。
柴田:それは俺も読んだ。そういう風習ってのは、いまでもフランスの村に残ってるんだってね。
平岡:うん。それで泣き女がいるのね。で、マリア様の像を先頭に立てたりしてさ、みんなで泣いたりするんだよ。残ってる。文久年間のドンタクの盆踊りの輪の中で、西洋人、黒人、日本人、中国人が早くも一緒になっちゃってる。この感じがニューオーリンズそっくりなんだね。黒人てのは何かっていうと、3種類の黒人がいると。1つはアヒリカ国、これアフリカのことだね。1つはシャロム人って、シャム人が一緒に踊ってる。これ絵がちゃんと残ってる。3つめのコンロン人ってのが、ことによるとコロン、植民地のニューオリンズのクレオールじゃあないかな。で五雲亭貞秀の「横浜どんたくの図」っていう絵を見ると、いちばん最後にトランペットのドナルド・バードそっくりの黒人が旗を振ってたりするよ。それで俺はひょっとわかったことだけど、開港期の横浜というのは、やっぱり日欧、それから中、それから召使としてやってきたかなりの数の黒人だね。軍人じゃなくて、洗濯女だとか買物をするハウス・ニグロなんだろね。いまの言葉で言う、これが来てる。これは江戸には全然ない。それは非常にニューオーリンズに似てたし、ひょっと目を対岸に向けると上海のフランス租界に似てるわけだよ。
柴田:それは、われわれの先人みたいな人たちは、やっぱりそういうのを受け入れることにやぶさかじゃなかったんだよね。平気で受け入れちゃうんだよね。排除しようなんて気はぜんぜんなくて、すぐ仲良くなっちゃうんだろうね、きっと。
平岡:うん、そうなんだよね。俺、そこらへんの浜っ子気質みたいなの好きなんだよ。あのカトリーナ台風に関して、横浜の決定的なことは、ニューオーリンズがやられたって瞬間に対岸の上海とニューオーリンズと横浜って、パッと3角形で結んじゃったな。これ東京になかった。それがあなたにあったし、鶴さん(鶴岡博事務局長)にあったし、俺にあった。だからカトリーナに関して、立ち上がりが圧倒的に早かったわけでしょ。とにかくダンボールでつくっちゃったんだって、その場で募金箱を。硬貨がダンボールの隙間に入るんで、なかなか出せなかったって話聞いてるけど。俺はあれ感動的だったな。ダンボールの向こうにね、ニューオーリンズ、それから港崎遊廓、上海のフランス租界の3角形がフッとこう見えた。やっぱそこは、わが街はたいしたものであると。歴史の記憶があるんだよね。

■「昭和ジャズ喫茶伝説」から「ジャズ者伝説」

柴田:俺の場合はね、高校時代から“ちぐさ”へ行ってて、学生時代はカウンターの中へ入っちゃったから、逆にいうとあそこの人間になってたからね。
平岡:で、カウンターの中に入れることが名誉だっていうんだろ。
柴田:そう、ステイタスだったんだよね、当時はさ。みんな入りたがったけど、親父が認めない人間は入れないというね。かといって、じゃあアルバイト代くれるのかって、一切ない。
平岡:コーヒー代ぐらいは…。
柴田:あ、それは「飲めよ」つって、俺たち「バン」て呼んでたんだけど、お客さんが飲んだ紅茶の出がらしっていうか二番煎じのやつを「飲めよ」っていう。
平岡:番茶の番だな。
柴田:そう、そうなの。それとかケーキを買ってきてくれたり、3時にさ。たまに、いくらくれたかなあ。よく覚えてないけど「これで、“七福”でうなぎでも食ってこいよ」とかさ。その小遣いで“七福”行ったり、“野毛庵”でてんぷらそば食べたりしたけど。だから店をオープンするのも俺だったり、しまうときも俺だったり。パパ・ジョン(島村秀二)なんて、そのころ元町からタクシーで来てた。
平岡:あ、そうだ。懐にうんと金が入ったんだよ。
柴田:そうなんだ。そこでコーヒー飲んで、ちょこっと聞いて、またタクシーで帰るみたいな、そんなことやってた。
平岡:彼言ってたな。サラリーマンの月給が1万円ぐらいのときに、15の自分がクラブで1日働いて1万円だと。「こりゃよくねぇ」というふうに思って足を洗ったと。「それで自分の店を持った」というようなことをね。これもひとかどの男だよな。パッと気がついてさ、「これはおかしいぞ」と思ったって。そういったことを含めて、俺は吉田衛って人の功績は非常に認めてるんだよ。
柴田:俺も親父には世話になったし、パパ・ジョンも、そう思ったのかなあ、結構“ちぐさ”のめんどうを見てたよ、あの人。あの人は人望もあるだろうしさ。人の面倒を見たりするのも嫌いじゃないんだよね。そういうところは吉田の親父さんと似てるな。
平岡:だから“ちぐさ”の親父さん、ゲーリック球場でさ、ジャズ・フェスティバルをやったとか、若いころの日野だとか秋吉敏子だとか、トロンボーンの谷啓だとか、そういったやつを世話したとか。俺はそれまったく認める。だから横浜文化賞もらってるだろ。でも俺には、“ダウンビート”のだらしなさが好きになってきた。そのだらしなさの中にファンキーな感じがあった。それである年、マスターの安保の親父(安保隼人)がコップに水をつぎながら「平岡さん、ジャズの本を書いてくださいよ」って言うんだよ。それからね、なんとなくあの親父の遺産みたいなかっこうで、じゃあ俺毎年書いてやろうっていう気になって、連続4年書き下ろしをやった。マイルス・デビスの3冊、チャーリー・パーカー1冊。ここまでやらせたジャズ喫茶ってのはあそこしかないだろうし、おそらく世界記録だと思うよ。毎年ジャズ論を1冊書き下ろすやつなんて、ちょっといないと思うから。
柴田:それで、喫茶店伝説に至るのは?
平岡:つまりその伝説の1番は、1人の著述家に連続4冊も書かせたジャズ喫茶。それも単にね、「平岡さん、ジャズの本書いてくださいよ」って言って死んじゃった親父へのはなむけなんだ。
柴田:でもあの本読んでわかったけど、平岡さんもずいぶんいろんなとこへ行ってるね。
平岡:自分があんなに行ってるとは思わなかった。横浜では、ほとんどあるんじゃねぇか。
柴田:“リンデン”がなかったね。
平岡:“リンデン”についてもね、昔は来たんだけど、横浜に住んだったら逆に遠くなった。
柴田:“シンバル”は?
平岡:いや、俺行ったことない。
柴田:“シンバル”ってよく行ったんだけど、どこにあったかな。もう忘れちゃった。たしかにあったんだよな。
平岡:それから2回しか行ってないのが“ジャズメンクラブ”。でもあそこは、ビブラホーンの杉浦さん(故杉浦良三)の店だよな。杉浦さん好きでさ、横浜の塩爺いってんだろ(笑)。似てるよね。
柴田:でもおもしろいのは、平岡さんがさっきからいってる“ダウンビート”。そして“ミントンハウス”もよく行くじゃん。どっちかってとオイどんとこはマイナーだよね。あんまり表舞台に出てこないというか、崎陽軒の宣伝には使われたけど(笑)、ジャズとしてオイどんの店ってあまり取り上げられない。あれ不思議なんだ。
平岡:ジャズ・チェーンの中に全然入ってないんだよね。中華街のはずれで3軒の葬儀屋にはかこまれてるけどな(笑)
柴田:今回マップに載せたいと思ってる。“リンデン”も。あれだけ長くやってるのになんか気の毒な気がするんで。
そうすると、ジャズ喫茶伝説やった。そして今度はジャズ者(もん)になっちゃったわけ?
平岡:そうそう。ジャズ者は横浜を主には最初はしないでおこうかなと思ったんだ。あまり生々しいんだよ。それから横浜へ来ると、俺、ジャズの概念が変わっちゃうんだ、柴田さんのおかげで。東京だとリアリィ・ジャズだったんだ。ボッサ・ノバなんかダメだ、とかさ。ジャズはエリントンを背骨とし、パーカー先生が現れて、ロリンズ先生が現れて、コルトレーンに至って、これだと。これ以外はジャズではあるが、なるべく聴かないでおくのだというのが俺なんなんだけど。
柴田:堅いよね。
平岡:横浜へ来るとね、だらしなくなっちゃうんだ。
柴田:違うね。それって逆じゃない。さっきの“ちぐさ”の親父の話と安保さんの話とは全然逆になってるんだ(笑)。
平岡:だらしないから俺好きだって言ってるじゃないか。
柴田:いや、だけどいま堅いこと言ってたじゃない、「エリントンを背骨として」とかさ。全然違うじゃない、言ってることが(笑)。
平岡:それは、俺が“ちぐさ”的なんだな。おかしいね(笑)。だからここへ来るとさ、港と祭りとジャズってやつが3分の1ずつなければいけないと変わるの。それから横浜のジャズというのは断片で切ると、ありとあらゆる種類のものが同時に並行しなければいけないと。リズム・アンド・ブルースも、横浜のジャズ・シーンにとっては重要なものであると言わなければいけない。中国人出身のジャズ・マンがいるってわけじゃないけど、少なくともリズム・アンド・ブルースに関しては、エディ藩と、陳信輝と李世福か。で、ハマ・ギターってのは彼らだよな、キューンイーンンって鳴くってやつだな。ていうふうに、中国人の存在は相当深くある。中国ということを外せば横浜は横須賀と変わりなくなってしまうということ。
柴田:うれしいね。俺もやっぱり浜っ子なんだよ、きっと。だからさぁ、ジャズはいろんなジャンルがあってもいいじゃないかって、寛容なんですよ。
平岡:うん、おれも寛容。寛容になっちゃったんだ(笑)、ここへ来て。
柴田:それで、この間平岡さん、「昭和ジャズ者(もん)伝説」のサイン会やったじゃないですか。サイン会がよかったよっていってくれたじゃない。もう少しそのサイン会の話をしてくださいよ。
平岡:俺はずいぶん横浜で活動してるけれども、何かひとつ足りないっていう気が常にあった。というのは、ここで1冊も本出してないの。つまり俺はもの書きとして東京を離れていないなという感じがあった。ところが、あそこの伊勢佐木町の中2階の昼下がり、このとき初めて俺はやっと横浜の著述家だなという気持ちになった。ものすごくうれしかったね。
柴田:俺もうれしいね。
平岡:こういうことがあったんだよ。落語とジャズの、両方の俺を受け入れてもらったこと。これは平凡社と講談社と、それからもう1つ有隣堂なんだ。これ、3社で営業サイドでやる。だから横浜で平岡を成功させなきゃいけないということになった。そこで俺が横浜で一番活動の拠点にしているところが動いてくれた。感謝だね。サイン会のBGMにCDをかけるということになった。俺は前の晩の2時までかかって選曲してきたの。人が聞いたら「これが最終章の郷間和緒なんですよ」とやるつもりでいた。そしたら玄関に忘れてきちゃったんだな。さぁしまった、何かなくちゃいけない。タクシーを降り石丸電気へ入り、買おうとした瞬間に、ビリー・ホリディとチャーリー・パーカーとマイルスは止めようと。
柴田:いい選択だったね。やめようというのが。
平岡:いい選択だった。これやると俺が聴いちゃうし…。何にしようかなと思って3つを除いたら、ホッジスだったんだよ。
柴田:最高の選択。
平岡:あなたの顔が出てきたんだ。これホントにそうなんだ。で、これは何回も言ってることだけれども、あなたの店で夜、堀川に海が上がってくる感じで、10時過ぎて店の女の子を帰して、俺だけコーヒーをいれてもらって、そのとき有線をCDに切り替えて、ボーズのスピーカーから間接照明的な音で出てくる、ジョニー・ホッジスのね。まぁ、あそこでは「ソフィスティケイテッド・レディ」だとか「ウォーム・バレー」とか、そういった曲なんだけど、こんなにいいとは思わなかったんだよ。もちろん俺だってジャズ・ファンだから、チャーリー・パーカーを凌ぐほどのヤツがいるとしたらホッジスしかいないということは知ってるけど、あなたの店でこんなにいいとは。だから文句言ったんだよね。なんでこんなボーズのスピーカーなんか使うの。もっとナイフで斬りつけるみたいな音にしろ。ところが、それ受け入れないで「横浜の夜の10時を過ぎて、地元の人間が1日の疲れを取るためにホッとして、ついでにフランケン・ワインを飲んでくれて聴くホッジスは、この音量、この音質でなきゃいけない」って、あなたに確信があったんた。
柴田:ホント、あそこの店というのは、ガーランドとかホッジスなんかがぴったりあってたね。
平岡:けっして前衛じゃないんだよね。もうジャズの背骨そのものってやつで。で、あそこで聴くと前衛なんかよりも、ホッジスやガーランドのほうがジャズの本質を突いてるということがわかる店だった。これは横浜って港町の持ってる空気感の貫祿だな。

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